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永遠といま [「信巻を読む(2)」その15]

(2)永遠といま

しかし「永遠の本願がいまはじまる」とはいったいどういうことでしょう。どこかから、「お前は自分が何を言っているのか分かって言っているのか」という突っ込みが入りそうな気がします。そもそも永遠などというものがわれらの手に負えるものなのかどうか、これが問題です。われらは永遠なるものをどうあってもつかまえることはできません。つかまえたと思った瞬間、それはもう永遠ではなくなっています。つかまえるということは時間・空間のなかに位置づけることに他なりませんから。では永遠なるものはただの幻影でしょうか。とんでもありません、われらは本願という永遠なるものに生かされて生きています。

われらは永遠の本願をどうあってもつかまえることはできません、でも永遠の本願がわれらを否応なくつかまえるのです。われらは気がついたら永遠の本願につかまえられて、そのなかにいます。親鸞の言い回しでは永遠の本願は「もの(人です)の逃ぐるを追はへとる」のです。そのときわれらは永遠の本願のなかで生かされています。これが永遠の本願が「いま」はじまるということです。こんなふうに、永遠なるものが信心の「いま」、時間のなかに姿をあらわすのです。

そのことをこれまで「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であるという言い方で述べてきました。「わたしのいのち」とは「ミタ(有量)のいのち」で、「ほとけのいのち」とは「無量(アミタ)のいのち」です。われらは「有量のいのち」を生きていますが、そして信心がおこるまでは、ただひたすら「有量のいのち」を生きるだけでしたが、「信楽開発」の「ときのきはまり」に、「有量のいのち」のままですでに「無量のいのち」のなかにあることに気づかせてもらうのです。「有量のいのち」であるままで「無量のいのち」を生きることになるのです。これが「永遠の本願がいまはじまる」ということです。

われらは生が終わったあとに、死がはじまると思っています。そして何となく死が永遠だろうと思っています。しかし信心がおこってみますと、いまもうすでに永遠がはじまっているのです。いまもうすでに「永遠のいのち」のなかにいることに気づくのですから、この気づきは「広大難思の慶心」と言わなければなりません。


タグ:親鸞を読む
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