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『歎異抄』を読む(その175) ブログトップ

11月7日(水) [『歎異抄』を読む(その175)]

 ここで「廻心」ということばは「信心を得ること」の意味で使われています。「もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらする」ことです。自力の心から他力の心への廻心です。キリスト教やイスラム教では「回心」と言いますが、同じ意味です。ところで、紛らわしいことばに「改心」というのがあり、これは何か悪いことをした時に、反省して「もうこれからはしない」と心をいれかえることを指します。
 さて、この宗教的な廻心と倫理的な改心をゴッチャにしてしまうことから、「はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあひて、口論をもしてはかならず廻心すべし」という誤った考えが生まれてくるのです。宗教的な廻心は一回きりなのに、それを倫理的な改心と一緒くたにしてしまうものですから、口論をする度に廻心しなければならないという誤解が生まれるのです。
 としますと、この第16章は、宗教と倫理を一緒くたにせず、はっきり区別しなければいけませんよということでいいのでしょうか。それで済むのでしたら話は簡単なのですが、残念ながら倫理と宗教は、「はい、ここまでが倫理、ここからが宗教」というように区分けできるようにはなってしません。考えてもみてください、『歎異抄』は全篇「善と悪」の問題で埋め尽くされています。親鸞は倫理と宗教の狭間で考え続けた人です。
 倫理は「あるべき」の世界で、宗教は「あるがまま」の世界と言うことができます。宗教が与えてくれるメッセージは「あなたはそのままでもう救われているのですよ」と表現することができます。しかしその一方で倫理はぼくらに「あなたはこうするべきだ、ああするべきだ」と命令してきます。そしてぼくらはその命令に従おうとしても従えず、そこから「はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあひて、口論をもして」苦しんでいるのです。この倫理的な苦しみと宗教的な救いの関係をどのように考えたらいいのか、それが第16章の課題です。

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