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「自力のこころ」と「他力のこころ」 [「『正信偈』ふたたび」その47]

(7)「自力のこころ」と「他力のこころ」

この「えっ」というわだかまりは、「わたし」が蔑ろにされているという感覚です。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで(そこには聖者もいれば極悪人もいるというように千差万別ですが)、みな「ほとけのいのち」のなかで平等に生かされていると言われますと、「わたし」のはたらきはどうなるのかという苛立ちがはじけるのです。「わたし」はできるだけ善き生を送ろうと一生懸命につとめているつもりだが、「もうすでに」あらゆる「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」のなかで一様に救われているとすれば、「わたし」の頑張りは何なのかという不満、これが「衆水海に入りて一味なるがごとし」という教えの受持を難しくさせるのです。

「邪見驕慢の悪衆生」ということばは、この「わたし」にこだわる姿勢すなわち「自力のこころ」を言っているのに違いありません。

自力に囚われる邪見、自力を恃む驕慢、これが本願他力の教えを阻んでいるのですが、その関係を時間の観点から見ておきますと、「自力のこころ」は「これから」にその本質があるのに対して、「他力のこころ」は「もうすでに」にその本質があります。まず「自力のこころ」ですが、高村光太郎の「道程」という詩は、その精神をみごとにうたい上げています、「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」と。時間というものは「わたし」が切り拓いていくものであり、その本質は「これから」にあるということをよく示しています。もちろん「もうすでに」切り拓いた時間をかえりみることもありますが、それはあくまで「これから」さらに時間を切り拓いていくためであり、それ以上ではありません。どこまでも「これから」を見つめつづけていくのみです。

それに対して「他力のこころ」においては、「もうすでに」の豊かな時間が「わたし」を包み込んでいます。気がついたら「わたし」は「もうすでに」の時間に包摂されていて、そのなかで「あんじん」を得ているのです。もちろん「わたし」はその中で何もしないわけではありません、「これから」を生きていかなければなりませんが、しかし「もうすでに」の時間の「あんじん」のなかにあるのですから、「これから」に囚われることはありません。


タグ:親鸞を読む
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