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「信巻を読む(2)」その98 ブログトップ

耆婆(ぎば)という大医 [「信巻を読む(2)」その98]

第9回 なんぢ独りいかんぞ罪を得んや

(1)耆婆(ぎば)という大医

六人の大臣の後に耆婆という医者が登場します。

その時に、大医あり、名づけて耆婆(ぎば、阿闍世の異母兄)といふ。王の所に往至してまうしてまうさく、〈大王、いづくんぞ眠ることを得んやいなや〉と。王、偈をもつて答へていはまく、乃至 〈耆婆、われいま病重し。正法の王において悪逆害を興す。一切の良医・妙薬・呪術・善巧瞻病(ぜんぎょうせんびょう、巧みな看病)の治することあたはざるところなり。なにをもつてのゆゑに、わが父法王、法のごとく国を治む、実に辜咎(つみとが)なし。横に逆害を加す、魚の陸(くが)に処するがごとし(陸に上げられた魚のようです)。乃至 われ昔かつて智者の説きていひしことを聞きき。《身口意業もし清浄ならずは、まさに知るべし、この人かならず地獄に堕せん》と。われまたかくのごとし。いかんぞまさに安穏に眠ることを得べきや。いまわれまた無上の大医なし、法薬を演説せんに(薬となる教えを説いて)、わが病苦を除きてんや〉と。耆婆答へていはく、〈善いかな善いかな、王罪をなすといへども、心に重悔(じゅうけ)を生じて慚愧(ざんぎ)を懐けり。大王、諸仏世尊つねにこの言を説きたまはく、二つの白法あり、よく衆生をたすく。一つには慚、二つには愧なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚はうちにみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。慚愧あるがゆゑにすなはちよく父母・師長を恭敬(くぎょう)す。慚愧あるがゆゑに父母・兄弟・姉妹あること(父母、兄弟姉妹の関係が保たれること)を説く。善きかな大王、つぶさに慚愧あり。乃至 王ののたまふところのごとし、《よく治するものなけん》と。大王まさに知るべし。迦毘羅城(かびらじょう、カピラヴァストゥ、釈迦の故郷)に浄飯王(じょうぼんのう)の子、姓は瞿曇(くどん、ガウタマ)氏、悉達多(しっだった、シッダールタ)となづく(釈迦のこと)。師なくして自然に覚悟して阿耨多羅三藐三菩提を得たまへり。乃至 これ仏世尊なり。金剛智ましまして、よく衆生の一切悪罪を破せしむこと、もしあたはずといはば、このことはりあることなけん(王の病を治せない道理がありません)。乃至 大王、如来に弟(従弟)提婆達多あり。衆僧を破壊(はえ)し(教団の和を乱し)、仏身より血を出し、蓮華比丘尼(提婆達多のあやまりを指摘して殺される)を害す。三逆罪を作れり。如来、ために種々の法要を説きたまふに、その重罪をしてすなはち微薄なることを得しめたまふ。このゆゑに如来を大良医とす。六師にはあらざるなり〉と。乃至 


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