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感じるということ [『教行信証』「信巻」を読む(その87)]

(4)感じるということ


一般に何かを「見る」とき、その何かはあちらにあり、こちらにそれを見る主体があるというように、主体と客体とが分離されています。それに対して何かを「感じる」とき、その何かはあちらにではなく、こちらにあります。何かを「わが身の上に」感じていて、そのとき感じられる何かと感じる主体は切り離すことができません。たとえばいい香りを感じるとき、その香りはすでに「わが身の上に」やってきていて、香りと自分はひとつになっています。で次の瞬間、「この香りは何だろう、どこから来るのだろう」と周りを見回し、「あゝ、あの花の香りか」と思うのです。そのときわれらはあちらにある花を「見て」いるのであり、その香りを「感じて」いるのではありません。香りを「感じて」いるときは自分と香りはひとつになっています。


さて摂取の光明ですが、これはどこかにある光明を「見て」いるのではなく、いま「わが身の上に」やってきている光明を「感じて」います。そのとき光明と自分は切り離しがたくひとつになっています。「いまここ」にきていて、ひとつになっているということは、言い換えますと、それはわが身の上にある「はたらき」をしていて、その「はたらき」が感じられているということです。ここから言えますのは、われらが「見る」のは「体」であるのに対して、「感じる」のは「用(ゆう)」であるということです。仏教では「実体としてあるもの」を「体」と言い、「はたらき」を「用」と言いますが、本願も名号も光明もみな「体」ではなく「用」であり、したがってそれらはみな「見る」ことはできず、ただ「感じる」だけということです。


摂取の光明は「見る」ことができず、ただ「感じる」ことしかできないということは、それは主観的であるということで、それを感じた人にしか存在しないということです。これは決して摂取の光明の弱みなどではなく、むしろその強みであると言わなければなりません。親鸞はそれを「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそこばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『歎異抄』後序)と述懐しています。弥陀の本願は、それを信受した「このわたし」のためにあるという慶びを謳っているのです。



タグ:親鸞を読む
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