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『歎異抄』を読む(その219) ブログトップ

12月21日(金) [『歎異抄』を読む(その219)]

 この「流罪記録」の文章は誰が何のために書いたものか、よくわかっていません。古写本の中にはこの部分がないものもあることから、唯円が書いたものではなく、後で誰かが書き加えたものであることは間違いないでしょう。
 ともあれ、これは承元の法難の記録です。承元の法難とは、承元元年、1207年、法然の念仏集団に下された未曾有の大弾圧です。これは親鸞の生涯にとっても最大のエポックと言えるでしょう(親鸞35歳のときでした)。親鸞自身『教行信証』の中に、この事件について怒りを込めて記録していますので、それを現代語訳しておきます。
 「ひそかに考えてみますと、聖道門の諸宗はかなり前からその勢いがなくなり、浄土門の真実の教えは今盛んに拡がっています。ところが諸寺の僧たちは教えを見る目がなく、真実と方便を見分けることができません。また都の学者たちも行がどうあるべきかに戸惑うばかりで、その邪正を見分けられません。ここに興福寺の学僧が、後鳥羽上皇、土御門天皇の時代、承元元年の二月上旬に朝廷に念仏停止を願い出ました。天皇も臣下も、法に背き正義に反し、怒りと恨みの心から判断を下しました。それにより、浄土の真宗を興された源空上人をはじめ、その門弟たちに、罪の軽重を考えることもなく、乱暴にも死罪としたり、あるいは僧籍を奪い俗名を与えて遠流に処しました。私もその一人です。ですから、もうすでに僧ではありません、俗でもありません。ですから禿の字をもって私の姓といたしました。」
 最後の「しかればすでに僧にあらず俗にあらず、このゆへに禿の字をもて姓とす」ということばが「流罪記録」の中に取り入れられていますが、ここに親鸞の覚悟が語られています。

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