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「悲しみ」は人と人の間にある [生きる意味(その50)]

(21)「悲しみ」は人と人の間にある
 いかがでしょう、悲しみを「誰かの悲しみ」とするのはやはり無理があるということにならないでしょうか。「悲しい!」とき、悲しいのはぼくであってきみではないとしても、ぼくの中に悲しみがあるのではありません。ぼくが悲しみを所有しているのではありません。画面いっぱいに悲しみがあって、ぼくはその画面のカンバスでしかないのです。
 かなり前になりますが、わが子を亡くした悲しみについて書いたことがあります。その文章も悲しみは誰のものでもないということを示しています。
 ある時、高校の授業の中で「人は他人のために泣けるか?」というテーマでみんなと議論したことがあります。人が泣くのは、他人のためであるかのようにみえて、実は自分がかわいそうだから泣くのではないのか、という問いかけがなされたのです。
 例えば、おばあちゃんが亡くなって悲しくて仕方がない、というのは、亡くなったおばあちゃんがかわいそうというより、おばあちゃんを失くした自分がかわいそうなのではないか、という問いです。みんな頭を抱えて考え込んでいました
 そんな中である生徒が、自分と言うのは自分をとりまく人々との「関係」の中にしかないのだから、その関係がなくなることが悲しいのではないか、と答えるのを聞いて、その通りだと思いました。
 この発想が仏教の「無我」の考え方です。自分という固定的なものはどこにもなく、周りの人々との関係の中にしか自分はないのです。考えてみると喜びも悲しみも、自分と他人の「間」にあるような気がします。(つづく)
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