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本願念仏のリレー [『ふりむけば他力』(その27)]

(11)本願念仏のリレー

 親鸞は「よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と述べたすぐ後、驚くべきことを言います、「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり」と。ここに「信ずる」と「知る」のコントラストが鮮やかです。わたしはただ本願念仏の教えを信ずるのみで、そのことがどんな結果を招くのか知りません。わたしはもうすでに本願念仏につかみ取られ、それで救われているのですから、それ以上何が要るというのでしょう、ということです。
 ここからさらに驚くべきことばが出てきます、「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」と。
 この文はしばしば親鸞の法然に対する絶対的な信順を示すものと解されますが、これはしかし「法然聖人の行かれるところならば、たとえ火の中、水の中でも」といった類いのことばと受けとるべきではないでしょう。親鸞は「よきひとの仰せ」そのものを信じたのではなく、その仰せを通してそのなかから聞こえてきた「なんじ一心正念にしてただちに来れ」という弥陀の招喚の声につかみ取られたのです。法然が「わたしは“なんじ一心正念にしてただちに来れ”という弥陀の招喚の声を聞くことができました」と証言し、その「よきひとの仰せ」を聞かせていただいた親鸞がそれをきっかけとしてみずからも弥陀の招喚の声を聞くことができたということです。ここに本願念仏のリレーがどのように行われるかがはっきりと示されています。
 これまで本願力は気づいてはじめて存在するということを述べてきましたが、この気づきはどこか天空のかなたから摩訶不思議な声が聞こえて起るわけではなく、「よきひとの仰せ」を通して起ることを最後に確認しておきたいと思います。先に社会科教師の研修会で、「不思議な声というのは幻聴ではありませんか」という疑問が出された話をしましたが、もし「そのまま生きていていい」という声が中空から突然舞い降りてきたのでしたら、その疑問はもっともであると言わなければなりません。しかしそれは目の前の老夫婦の「こんにちは」という声を通して、そのなかから聞こえてきたのです。そのとき老夫婦はぼくにとっての「よきひと」になっていたのです。

                (第2章 完)

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