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智慧の念仏うることは [親鸞の和讃に親しむ(その92)]

(2)智慧の念仏うることは

智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし(第35首)

南無阿弥陀仏いただくは、本願力のなせるわざ。信心の智慧なかりせば、いかでかさとりひらけよか。

「智慧の念仏」、「信心の智慧」と言われ、念仏も信心も智慧に他ならず、それは「法蔵願力」により賜るものであることが詠われます。知識はわれらが獲るものですが、智慧は如来から賜るものであるということ、ここに思いを潜めてみましょう。知識はわれらの努力により獲る(ゲットする)ことができますが、智慧はこちらからどれほど獲たいと思っても獲られるものではありません。それはあるとき思いがけず賜るものです。智慧はわれらがそれをゲットするのではなく、逆にわれらがそれにゲットされるのです。気がついたらもうその智慧のなかにいるのです。ではそれはどのようなものかと言いますと、如来は自分を「待ってくれている」という気づきです。

「希望という名のあなたをたずねて」という懐かしい歌を思い出しました。われらは希望があるから生きることができるのは確かですが、その希望には二種類あるのではないでしょうか。一つは普通の希望で、われらが何かを「待つ」ということです。きっと何かに会えるに違いないと思ってそのときをじっと待つ。もちろん何もしないでただ待つわけではありません、何とかして会いたいと思い、「あなたをたずねて、遠い国へとまた汽車に乗る」のです。しかし希望にはもう一つあります。それは誰かが自分を「待ってくれている」ということです。自分が誰かを「待つ」のでなく、逆に誰かが自分を「待ってくれている」。「信心の智慧」というのは、如来が自分を「待ってくれている」ことに気づくことです。

如来が自分を「待ってくれている」ことは、あるときふと気づかされます。「お前を待っているぞ」という声が聞こえてくるのです。これがひとたび聞こえれば、もうこの希望が消えることはありません。誰かを「待つ」という希望は、どれほど待っても会えないと、もろくも崩れるものですが、如来が「待ってくれている」という希望は、どんなことがあっても崩れることはありません。


タグ:親鸞を読む
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