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真の仏弟子 [「信巻を読む(2)その47]

第5回 真の仏弟子

(1) 真の仏弟子

「横超断四流」につづいて、「真の仏弟子」についての注釈がはじまります。まずは親鸞の自釈です。

「真の仏弟子」といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは、釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。

この「真の仏弟子」ということばは、『観経疏』「散善義」の深心釈のなかに出てきました。ふり返っておきますと、「また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふ処をばすなはち去(す)つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく」とあります。かなり前のところで引用された文に出てくる「真の仏弟子」ということばをここで取り上げているのですが、それは、これまで真実の信心のありようを三心一心問答を通して、さらに横超断四流ということばを通して明らかにしてきたが、今度は真実信心を得た人のありようを「真の仏弟子」ということばを手がかりに明らかにしておきたいということでしょう。

そこで、もう一度この深心釈のことばが言おうとしていることを味わっておきたいと思います。仏教に随順し、仏意に随順し、仏願に随順する人が真の仏弟子であるというのですが、仏教に随順し、仏意に随順し、仏願に随順するとは、要するに本願名号に随順するということでしょう。そして本願名号に随順するというのは、「いのち、みな生きらるべし」という「本のねがい」(本願)が「南無阿弥陀仏」という「こえ」(名号)としてやってきたのを確かに聞き受けることができたということです。それが本願名号の信心です。本願名号に「随順する」という言い回しは、本願名号とそれに随順する人が分かれているような印象を与えますが、本願名号と信心は別ではありません。本願名号があるから信心があるのはもちろんですが、同時に信心(聞受)があるから本願名号があるのであり、つまり両者はひとつです。したがって、本願名号とひとつになっている人、それが真の仏弟子です。


タグ:親鸞を読む
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