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「傍に寄り添う」ということ(つづき) [生きる意味(その22)]

(19)「傍に寄り添う」ということ(つづき)
 ぼくら教師は問題を起こした生徒を前にすると兎角饒舌になります。ことばで自分と相手の「すきま」を埋めようとするのでしょうか。そして同時にこの時間が早く終わるよう願っています。もっとはっきり言えば、一刻も早く彼から逃げようとします。傍にいるのが辛いからです。
 この秘められた気持ちは、しかし相手に伝わるでしょう。「あゝ、この人は仕事上やむなくオレと話しているだけなんだ。早くオレから解放されたいんだ」と。自虐的になる必要はありませんが、生徒が抱える問題が大きければ大きいほど腰が引けてしまうのは否めません。いわゆる逃げ腰になります。
 そんな時に「何も言わず、ただ傍にいるだけ」がどんなに「しんどい」ことか。「お前のやったことは絶対許せない」という毅然とした姿勢を保ちつつ、しかし「傍に寄り添う」ということ。何だか格好良すぎるような気もします。「そんなことできるのか」とも思います。でもそれしかない。
 「傍に寄り添う」“stand by”ということは、相手の「いる」ことをそのまま受け入れるということに他なりません。
 自己責任論がまかり通る社会は血も涙もない冷たい社会ではないかということを述べてきました。「お前が勉強できないのは、お前が努力しないからであって、それはすべてお前の責任だ」ということばは、それ自体として全く正しいものですから、それを言う人の眼差しの冷たさが余計身に染みます。

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