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囚われの気づき [『歎異抄』ふたたび(その8)]

(8)囚われの気づき

 「われあり」と思い、「わがもの」と思うのは、われらの骨の髄まで染み込んだ思い込みです。われらは生まれてこのかたずっとこの囚われのなかにどっぷり浸っています。釈迦はそれに気づき、そこからあらゆる苦が生まれてくることに気づいた。そしてそれに気づけよとみんなによびかけた、これが仏法です。ここまできて、先の問いに答えることができます。仏法はわれらがゲットするのではなく、逆に、われらが仏法にゲットされるというが、それはどういうことかという問いでした。仏法だって、他のあらゆるものと同じように、こちらからゲットしなければならないのではないかと。
 そこで、もし仏法をこちらからゲットできるとしたらどうだろうかと考えてみましょう。そうしますと、われらは「われあり」にどっぷり囚われているということを、われら自身が捉えたということになります。これはどこかおかしいと思われませんか。われらが何かにどっぷり囚われているとしますと、その事実を自分で知ることができるはずがありません。夢の世界にどっぷり浸っている人は、それが夢であることを自分から知ることは金輪際できません、夢から覚めてはじめて夢のなかにあったことに気づくのです。「われあり」に囚われているのも夢のなかにあるのと同じで、そのことを自分で知ることはできず、それから抜け出てはじめて囚われていたことに気づきます。
 「われあり」に囚われているという気づきは自分からはおこることなく、どこかむこうからやってくるということです。かくして仏法はわれらがこちらからゲットするのではなく、逆に、われらは仏法にゲットされるという結論に至ります。これは釈迦においても例外ではなく、彼もまた無我の気づきをこちらからゲットしたのではなく、逆に、無我の気づきに彼がゲットされたのです。我が無我を捉えることほど奇妙奇天烈なことはありません。彼は無我を「悟った」のではなく、無我に「目覚めた」のです(因みに、ブッダということばは「ブドゥ」すなわち「目覚める」ということばから派生しますが、「ブドゥ」は自動詞です。一方、「悟る」は他動詞です)。

タグ:親鸞を読む
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