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必定の菩薩 [『教行信証』精読(その86)]

(12)必定の菩薩

 ここで言われているのも大乗の菩薩が仏道修行において初地に至るというのはどういうことかということであり、「諸仏を念ずる」ことの中に阿弥陀仏の名が出てくるとは言え、さっと読むだけでは浄土の教えとどこに接点があるのだろうと思います。一般に、浄土の教えにおいて『十住論』が取り上げられることがあっても、注目されるのはもっぱら「易行品」(ここにおいて「名号を称する」ことがはっきり出てきます)であり、その他の諸品は脇に置かれるのが普通です。しかし親鸞は、先の「入初地品」、そしていまの「地相品」、さらには次の「浄地品」にも目を配り、そこから浄土の教えを汲み取って(傍受して)いるのが感じられます。
 たとえば「必定の菩薩」ということば。
 必定とは「かならず仏になることに定まった位」のことで、浄土の教えにおいては正定聚不退と呼ばれます。龍樹が、あるいは一般に聖道門において「必定の菩薩」と呼ぶ人を浄土の教えにおいては正定聚と呼ぶのです。親鸞はこの「行巻」の先の方で、龍樹をはじめとする七高僧たちの論釈をひろく引用した後、それをまとめるかたちでこう述べています。「しかれば、真実の行信をうれば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果にたとふることは、初果の聖者、なほ睡眠(すいめん)し懶惰(らんだ)なれども二十九有(迷いの生)に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は即時入必定(即の時に必定に入る)といへり。曇鸞大師は入正定聚之数(正定聚の数に入る)といへり。仰いでこれをたのむべし。もつぱらこれを行ずべきなり」と。
 親鸞は、小乗の声聞や大乗の菩薩が自力の修行により初果に至り初地に達すると、もうどんなことがあっても仏になるべき身から転げ落ちなくなるように、他力の行者は、弥陀の本願に遇うことで、同じ境地にたちどころに入ることができるのだと、この龍樹の文から聞き取っているのです。ここには他力の行信のことなど何ひとつ書いてありませんが、親鸞の耳にはそれが聞こえているに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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