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10月4日(火) [矛盾について(その427)]

 金子氏は宗教というものも実習によって身につくのだと言い、「念仏というものは、本願の心を実習するものである」と言います。本願の心が分かった上で念仏するのではなく、念仏することを通して本願の心を分からせてもらうということでしょう。
 しかし、とにかく念仏してみよ、という言い方にはやはり無理を感じてしまいます。本願の心を知るのは理屈ではなく、身体で感じるものだということはよく分かります。でも、まず念仏を、と言うのはいかにも強引だと感じるのです。
 念仏に限らずあらゆる宗教に言えることでしょうが、「とにかく、まずやってみなさい」と勧められます。畳の上で水泳の訓練をしても仕方がない、とにかく水に入ってみなさい、すべてはそれからのことだと。まことにもっともだとは思うのですが、でも水に入るのが怖いように、「まずやってみる」ことにすごい抵抗があるのも事実です。子どもの頃から習慣化しているならいいのですが、そうでないと「とにかく、まずやってみる」のは並大抵ではありません。
 念仏するには、やはり「念仏まうさんとおもひたつこころのをこる」(『歎異抄』第1章)ことが必要です。
 ですから、次のように言われますと、金子氏の言いたいことが何となく分かるような気がします、「憶念の心ということは、どこかで念じているということです。いくら忘れても、いくら忘れようと思っても、忘れることのできない、どこか心の底で念じているということです」と。
 憶念の心とは、日々の生活の中で「こんな自分では何ともならない」と思うことです、あるいは「こんな自分であいすみません」と恥じるこころです。それを朝に夕に思う。そうするうちに本願の心が染みとおってくる。これが「念仏というものは、本願の心を実習するものである」の真意ではないでしょうか。

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