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弥陀の本願のリレー [「『正信偈』ふたたび」その52]

(2)弥陀の本願のリレー

さてではこの七人の祖師たちは何をしたのかと言いますと、「大聖興世の正意をあらはし、如来の本誓機に応ぜることをあかす」とされます。

「大聖興世の正意」が何であるかについては、すでに「ただ弥陀の本願海を説かんとなり」と言われ、その意味についていろいろ考えました(第3回)。その要点をかいつまんで述べておきますと、釈迦がこの世にお出ましになったのは、弥陀の本願を説くため以外の何ものでもなく、それを逆に言いますと、弥陀の本願は直接われらのもとに送られるのではなく、釈迦を通してわれら衆生に届けられるということです。としますと、「印度西天の論家」や「中夏日域の高僧」が「大聖興世の正意をあらはす」とは、七高僧たちは釈迦出世の本懐が弥陀の本願を説くことにあったことを明らかにするために次々とこの世に現われたという意味だということになります。

したがって釈迦出世の本懐が弥陀の本願にあるように、七高僧出世の本懐もまた弥陀の本願にあるということです。弥陀の本願はまず釈迦によって説かれ、そして七高僧のそれぞれは釈迦から弥陀の本願を受けとり、それを後世に伝えていく役割をしているということになります。このように弥陀の本願は直接われらに届けられるのではなく、人から人へと次々にリレーされて伝えられるのであることが了解できます。そのリレーの様子は『歎異抄』第2章にこう言い表されています、「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」と。

弥陀の本願はこのように人づてに伝えられていくということは何を物語るのかと言いますと、弥陀の本願は人を離れてどこかにあるものではないということです。われらは弥陀の本願と聞きますと、どこかに阿弥陀仏がおられて、その阿弥陀仏の大いなる願いとして本願というものがあるのだと思ってしまいますが、そうだとしますと、ちょうどキリスト教の神の愛と同じように、それはもうあらゆる人に直接ふりそそいでもいいように思われますが、しかし弥陀の本願はそのようにはなっていません。


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