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すなはち往生を得 [「『正信偈』ふたたび」その20]

(11)すなはち往生を得

「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」とき「すなはち往生を得、不退転に住せん」(第十八願成就文)と言われていることが、この第十一願では「等覚(正定聚と同じ)を成り大涅槃(滅度と同じ)を証する」と言われるのです。すなわち往生を得るとは正定聚になることであり、それはかならず滅度に至ることに他ならないということです。この時間的関係がきわめて重要で、名号を聞き信心を得るとき、「すなはち(そのとき)」往生する(=正定聚不退転に住する)のであり、そして「かならず(このさき)」滅度(=大涅槃)に至るのです。信心のときと往生のときは同時であり、そして滅度に至るのはこれから先、いのち終わって後のことです。

これを「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の関係で言いますと、「名号を聞きて、信心歓喜せん」とは、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで、したがって煩悩具足のままで、すでに「ほとけのいのち」であることに目覚めることです。それまでは、ただひたすら「わたしのいのち」を「わたしのはからい」で生きていると思っていましたが、名号の「こえ」が聞こえて、「わたしのいのち」はそのままですでに「ほとけのいのち」のなかに包まれ生かされていることに気づかされたのです。それはどれほど大きな慶びを与えてくれるでしょう。

「わたしのいのち」が「わたしのいのち」でしかありませんと、他の「わたしのいのち」たちとの相剋のなかでもがき苦しむことになります。それだけではありません、「わたしのいのち」みずからに対してあれこれケチをつけることになります、「どうしてこんなに病弱なのか」、「どうしてこんなに顔が悪いのか」、「どうしてこんなに……」と。ところが「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であり、「ほとけのいのち」としては他の「わたしのいのち」たちとひとつであることに気づきますと、もうそんな愚痴は過去のものとなります。

これが即得往生であり、正定聚不退(かならず仏となる身)であり、そしてそれが必至滅度です。

(第2回 完)


タグ:親鸞を読む
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