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一切皆苦とは [はじめての『高僧和讃』(その170)]

(20)一切皆苦とは

 ちょっとおさらいですが、ほんとうは苦しみなのに、それを楽しみと勘違いしているようなときというのは、「わたし」が他の「わたし」と激しく競争して、やれ勝った、やれ負けたと一喜一憂している場合でした。他との勝負に生きがいを感じ、これだから生きることは楽しいと思う。他との勝負という刺激のない世界は、そこがどれほど安楽であろうと、退屈して死にそうになるのではないかと思う。その人に「そんな人生どこが楽しいのか?あたら貴重ないのちをすり減らしているだけじゃないか」と言っても、「きみはこの魅力を知らないからそう言うだけだ」と取り合おうとしないでしょう。
 さてしかし、いま問題にしているのは、他と競争することに生きがいを感じるような場合ではなく、ごく平凡で日常的な楽しさです。わが子が立って歩いたと言っては喜び、青く澄んだ秋空を見上げてはいいなあと思う、そんな何げない喜び、楽しみがあるのではないか、ということです。とすれば、釈迦が生きることはすべて苦しみであるというのはやはり言い過ぎと言わなければなりません。
 では釈迦は「一切皆苦」ということで何を言おうとしたのか、これを考えるためには「諸行無常」を持ち出さなければなりません。わが子が立って歩いたと喜んだそのあくる日に転んで大けがをしたらどうでしょう。今日は透き通るような秋空だと喜んだそのあくる日は土砂降りの雨かもしれません。このように楽しいと思ったすぐ後に苦しみが控えているとしますと、その楽しみは遅かれ早かれ苦しみになることを運命づけられた楽しみでしかありません。
 先ほどの、勝った、負けたに生きがいを感じている人ならば、楽しみはまた苦しみになるからこそ、その楽しみに何ともいえない魅力があるのだ、と言うかもしれません。苦しみがあるからこそ楽しみが輝くのであり、楽しみしかない世界なんて退屈して死んでしまう、と。楽しみがいずれ苦しみに取って代わられるのなら、それはほんとうの楽しみとは言えないというのと、楽しみが苦しみになるからその楽しみに価値があるのだというのと、さて何れに軍配を上げるべきでしょう。

タグ:親鸞を読む
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