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宿業にあらずといふことなし [『歎異抄』ふたたび(その78)]

(8)宿業にあらずといふことなし

 この問題を主題的に取り上げているのは第13章で、そこで次のような親鸞のことばが紹介されます、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と。そして親鸞は唯円に「人を千人殺したら往生できると言われたら、そうすることができるか」と問いかけ、「とてもできません」という答えを受けてこう言います、「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と。
 ここで宿業とか業縁ということばで言われているのが「目に見えない縁の力」で、われらはどれほど自分の意思でものごとを決めていると思っていても、実はこの「目に見えない縁の力」でそうせしめられているのだと言っています。この発想の元が釈迦の縁起であることは言うまでもありません。「これあるに縁りてかれあり」という具合に、すべては縦横無尽のつながり(縁)のなかにあるとしますと、「わたし」が「そうしよう」と思ってしていることも、そのつながり(縁)のなかで「そうせしめられている」ということになります。
 大急ぎで言わなければなりませんが、これはいわゆる運命論(宿命論)ではありません。運命論は人間の自由意思を否定しますが、縁起の思想は否定しません。
 われらは自由に「こうしよう」「ああしよう」と思って行動しているのであり、したがってその結果については責任を取らなければなりません。しかし「こうしよう」「ああしよう」と思っていること自体が縦横無尽の(われらには到底見通すことのできない)つながり(縁)のなかで「そうせしめられている」のであると言うのです。われらは何ごとも自分で「そうしよう」と思ってしているのであり、その意味では自由ですが(自力ですが)、同時に目に見えない縁の力で「そうせしめられている」のであり、その意味では宿業に縛られています(他力です)。

タグ:親鸞を読む
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