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本願の証人 [『教行信証』精読(その162)]

(9)本願の証人

 「悟る」と言いますと、何か新しい真理をつかみ取るということですが、「目覚める」というのは、これまで気づかずにいたことに、あるときふと気づくということです。それは、気づくより前からずっとあったことであり、新しい何かではなく、むしろ古色蒼然としています。もうお分かりでしょう、それが弥陀の本願です。釈迦は何か目新しいことをつかんだのではなく、これまでからずっとあったのに気づかずに過ごしてきた弥陀の本願にふと気づいたのです、目覚めたのです。だから、釈迦は気づいた弥陀の本願を証言するために、ただそれだけのためにこの世に現れたということになるのです。
 さて、釈迦は本願の証人であるということから大事なことが出てきます。
 もし釈迦が何か新しい真理をつかみとったのだとしますと、われらは釈迦からそれを手渡してもらうことを期待できるでしょうが、釈迦はただ弥陀の本願に気づき、そのことを証言してくれただけだとしますと、その証言を聞いたとしても(経典を読んだとしてもということですが)、それでわれらが弥陀の本願に気づいたことにはなりません。釈迦と同じように、われら自身が弥陀の本願に気づくしかありませんが、では釈迦の証言とはいったい何でしょう。そんなものはなくとも、われらが弥陀の本願に気づけばいいだけのことではないでしょうか。
 ここで留意しなければならないのは、弥陀の本願はわれらに直に届くことはないということです。それは人が語ることばとして聞こえてくるしかありません。
 弥陀の本願とは、言ってみれば宇宙の願いのようなものですから、それがそのままわれらに聞こえることはありません、人間のことばをまとってはじめて届くのです。釈迦が宇宙の願いを人間のことばにしてくれたからこそ、われらは釈迦の証言を通して宇宙の願いに気づくことができるのです。では釈迦自身はどのようにして弥陀の本願に気づくことができたかと言いますと、彼もまた直に宇宙の願いを聞くことはできず、誰かの語ったことばを通して、それを傍受したに違いありません。そしてそれを弥陀の本願ということばで語ってくれた。その大恩を忘れることはできません。

タグ:親鸞を読む
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