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五濁悪世のわれらこそ [はじめての『高僧和讃』(その146)]

(16)五濁悪世のわれらこそ

 次の和讃です。

 「五濁悪世(ごじょくあくせ)のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて ながく生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ」(第76首)。
 「五濁悪世のわれらこそ、金剛の信ばかりにて、生死の迷いすてはてて、すでに浄土にいたるなれ」。

 すぐ前のところで述べました懺悔とのつながりで言いますと、五濁悪世というのも、その気づきがあってこそのことで、どこかに五濁悪世があるわけではありません。客観的な意味での五濁悪世でしたら、どの時代をとっても五濁悪世ではないでしょうか。王舎城の悲劇は釈迦在世中の出来事であることからも分かりますように、時代が下ると世の中が悪くなるというものではなく、昔も今も悪世と言えば悪世です。「五濁悪世のわれら」とは、いまは五濁悪世であり、自分自身が悪にまみれた身であるという気づきに他なりません。その気づきがなければどこにも五濁悪世などないということです。
 「五濁悪世のわれら」という気づきがあるからこそ、「金剛の信心」という気づきがあるのです(信心といいますのは、本願の気づきに他なりません)。罪悪の気づき(機の深信)と本願の気づき(法の深信)はひとつであるということ、これは何度でも確認する必要があります。機の深信のあるところ必ず法の深信があり、法の深信のあるところ必ず機の深信があるということです。そしてそれは気づきである以上、こちらから気づこうとしても気づけるものではなく、あるときふと気づかせてもらうしかありません。
 さて次に「金剛の信心ばかりにて、ながく生死をすてはてて」についてです。信心だけで生死の迷いから抜け出られるということ、これを考えなければなりません。信心がありさえすれば、それだけで迷いの世界からおさらばできるというのはあまりにも虫がよすぎるのではないかという疑念が起こっても不思議ではありません。善導の時代から浄土教に対してそのような反論があったことはよく知られています。そして善導は『観経疏』「玄義分(書物の勘どころをあらかじめ述べた部分)」でその問題を取り上げています。

タグ:親鸞を読む
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