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第5回、本文4 [「『証巻』を読む」その49]

(8)第5回、本文4

さてしかし、「阿弥陀仏を見る時、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し」ということに、さらなる疑問が出されます。

問うていはく、もしすなはち(ただちに)等しからずは、またなんぞ菩薩といふことを得ん(どうして上地の菩薩と等しいというのか)。ただ初地に登れば、もつてやうやく増進して、自然にまさに仏と等しかるべし。なんぞ仮に上地の菩薩と等しというやと。

答へていはく、菩薩、七地のなかにして大寂滅を得れば(一切は空であると覚れば)、上に諸仏の求むべきを見ず(上に向かって仏の覚りを求めようとせず)、下に衆生の度すべきを見ず(下に向かって衆生を済度しようとはしない)。仏道を捨てて実際(涅槃)を証せんと欲す。その時に、もし十方諸仏の神力(じんりき)加勧(かかん)を得ずは、すなはち滅度して二乗(声聞乗と独覚乗、小乗)と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなはちこの難なけん。このゆゑにすべからく畢竟平等といふべし。

この疑問の趣旨は明らかでしょう。「畢竟じて(ついにはかならず)」と言うのなら、初地の菩薩は「畢竟じて」仏になるのだから(それが正定聚不退ということです)、どうしてわざわざ「畢竟じて」上地になるなどと言う必要があるのか、ということです。それに答えて曇鸞は「七地沈空の難」を持ち出します。七地に至った菩薩は大きな試練にあうというのです。それは七地に至り「すべては空である」という大覚を得ると、もうこれでよしと衆生済度のはたらきを止めて涅槃に入ってしまう危険があるということです。これでは自分の救いで満足してしまう小乗の立場で終わってしまいますが、「菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつ」れば、こんな試練にあうことなく自利利他満足の大乗の仏道を歩むことができるというのです。これが初地の菩薩も弥陀の本願力によって「畢竟じて」上地の菩薩と等しくなると言われる理由だというのが曇鸞の答えです。

菩薩道を自力で歩む行者は七地沈空の難がありますが、弥陀の本願力に乗じることができれば、そんな難にあうことはなく、ついには自在無碍に「生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」ことができるということです。


タグ:親鸞を読む
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