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「親鸞とともに」その77 ブログトップ

はじめに(8) [「親鸞とともに」その77]

第8回 信じるということ

(1)はじめに

「ほとけの願い」は「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」から生まれてくるとき、そのなかにすでに与えられていることを見てきました。ちょうどわれらのいのちが生まれてきたとき、そのなかにはすでに遺伝子が与えられているようなものです。しかしわれらはそんなことを意識せずに生きています。プラトンのイデア論において、われらはこの世に生まれてくるとき、それ以前に見ていたイデアの世界をすっかり忘れてしまっているように、われらは「ほとけの願い」のことを意識の深層に追いやって生きています。各自がそれぞれの「わたしの願い」をもち、それを「わたしの力」で実現しようと必死に生きており、「ほとけの願い」のことなどまったく意識にありません。

ところが、何かの折に、すっかり忘れ、忘れていること自体を忘れていた「ほとけの願い」をふいに思い出すことがあります。プラトンのイデア論において、何か美しいものに出あったとき、すっかり忘れ果てていた「美のイデア」を想い起こすように。さて、このように忘れたこと自体を忘れていることは、自分でそれを思い出すことはできません。何かを忘れても、忘れたことは自覚している場合、それを思い出そうと努力することができます。年とともに人の名前を忘れることが多くなりますが、「えーっと、何という名前だったかな」と、さまざまな手がかりで必死に思い出そうとします。しかし忘れたことそのものを忘れてしまったときは、自分ではもう何ともなりません。

すぐ前のところで「ほとけの願い」を「ふいに思い出す」と言いましたのは、「こちらから」思い出そうとしているのではないのに(何しろ忘れたことを忘れているのですから)、「むこうから」浮び上がってくるということです。つまり「ほとけの願い」は自分の力で思い出すことはできず、「ほとけの願い」そのものがわれらをして思い出させるのです。「ほとけの願い」を思い出すことはわれら「に」おこりますが、われら「が」おこすことはできず、「ほとけの願い」それ自体がおこすということです。これが「ほとけの願い」を信じるということ、すなわち本願の信心です。


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