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難のなかの難 [『ふりむけば他力』(その44)]

(6)難のなかの難

 「この経(無量寿経)を聞きて信楽受持する」とは本願他力に遇うことに他なりませんが、それは実に「難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん」と言うのです。しかしその一方で、本願念仏の教えは易行であるというのが一般の通り相場ではないでしょうか。龍樹が『十住毘婆沙論』において、「陸道(ろくどう)の歩行(ぶぎょう)はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽し」と言い、「勤行精進」の道によってさとりをめざすのは難行であるのに対して、「信方便」の道はすみやかに不退(かならず仏になれる位)にいたることのできる易行であると述べたことから、聖道門は難行道、浄土門は易行道であるとされてきました。そのことと「信楽受持することは、難のなかの難」とされることとはどのように折り合いがつくのでしょう。
 そもそも「難しい」とか「易しい」とか言うのは、われらが自力で何かをするときのことです。何度も言いますように、日常につかうことばは自力用の仕様になっていますから、他力を語ろうとするときにはさまざまな困難にぶつからざるをえないのですが、いまの場合もその一つです。本願他力を信ずるというのは、それに遇うことに他ならず、それ自体が他力です。他力を信ずることが自力では平仄があいません。としますと、他力のことを語るのに、難しいも易しいもないということにならないでしょうか。われらが「こちらから」何かをすることが難しいか、さもなければ易しいのであり、「むこうから」はからわれていることに難しいも易しいもありません。では「信楽受持することは、難のなかの難」とは何を言っているのでしょう。
 そこで思いを致したいのが本願他力はそれに遇ってはじめて姿をあらわすということです。そのときどんな思いがこみ上げてくるかといいますと、「ああ、もうすでに本願他力のなかで生かされていたのか」という感慨であり、と同時に「これまでずっとそのなかにいたにもかかわらず、それにまったく気づかずじまいだった」という驚きです。ここから本願他力に遇うのは何とも「難しい」という感覚が生まれてきます。この「難しい」は、これから何かをしようとして、それがとてつもなく「難しい」ことだと感じているのではなく、気づけなかったこれまでをふり返って、それをとんでもなく「難しい」ことだと感じているのです。親鸞が「多生にも値ひがたく」、「億劫にも獲がたし」と言っているのはそういうことです。

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