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正定聚と滅度 [「『証巻』を読む」その29]

(9)正定聚と滅度

さてしかし未来とはあくまでも現在の予測にすぎませんから、それが外れる可能性があることは言うまでもありません。明日は100%晴れるという予測が外れて土砂降りになることもあり得ます(そうなったとしても、それは気象予報士の責任ではありません、これまでのデータの中になかったことが起っただけのことです)。ましてや、いのち終わったあとのことは誰ひとり経験したことがありませんから、ただそうなるだろうと思い描いているだけとも言えます。だからこそ釈迦は死後のことについては無記(語らず)の立場をとりましたし、清沢満之もその姿勢を貫きました(彼は遺言とも言える『わが信念』のなかで「来世の幸福のことは、私はマダ実験しないことであるから、此処に陳(のべ)ることは出来ぬ」と言っています)。

親鸞はどうかといいますと、この文のように祖師たちが死後の涅槃について語るのを引用することはあっても、みずから積極的に「来世の幸福」を語ることは少ないと言えます。彼の眼はあくまでも信心を得た「いま」に向けられているということです。前にも述べましたように、救いは本質的に「いま」にしかないからです。救いを「この先」に求めるのは、「いま」救われていないからであり、逆に、「いま」救われていれば、「この先」のことを心配することはありません。親鸞のこの姿勢をはっきり見て取ることができるのが、すでに読みました「証巻」冒頭の部分です。

「つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり」と、まずは真実の証として滅度、涅槃を上げますが、すぐつづけて「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり」と述べていました。親鸞はこの「しかるに」にかなりの重みをかけているに違いありません。死んでからの滅度、涅槃よりも、信を得たそのときの正定聚にこそほんとうの証があるということです。さらにつづけて「正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」と述べ、正定聚が主であり、滅度はそれにおのずから伴うものであることをほのめかしています。


タグ:親鸞を読む
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