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5月21日(土) [矛盾について(その291)]

 「この世にいる」ことを「感じる」とは、「この世にいていい」と思えることです。「生きていていい」と「感じる」ことです。先ほど「この世にいる」ことを「感じる」のは「向こうから」だと言いましたが、それをこれまで「あなた」からという言い方をしてきました。「あなた」が「そのまま生きていていい」と言ってくれるから、「このまま生きていていい」と思えるのです。
 「あなた」と芹沢=ウィニコット説の「他者」とでは根本的な違いがあります。芹沢氏が「一緒の誰か」と言うのは、自分にとって特別な誰か、母親や信頼している友人などでしょう。しかしぼくが「あなた」ということばで指しているのは、そのような特定の誰かではありません。見知らぬ誰かが、すれ違いざま「こんにちは」と言ってくださり、それがぼくに「そのまま生きていていい」と聞こえたら、その方がぼくの「あなた」です。「あなた」を特定することはできません。
 さて、改めて問います、「この世にいる」ことが傷つくとはどういうことでしょう。「このまま生きていていい」とは思えないということです。「このまま生きていていいのだろうか」と煩悶するとき、それを誰かに相談することはできるでしょうか。
 「この世にいる」ことが、すべての「する」ことの条件でした。正確に言い直しますと、「この世にいていい」と思えるから、何ごとかを「する」気力が湧いてくるのです。としますと、「このまま生きていていい」と思えなかったら、誰かに相談することもできません。もう何ごともする気力が失せてしまうのです。ここから引きこもりが始まるのは必然です。
 しかしどうして「このまま生きていていい」と思えないのでしょう。

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