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無礙光如来に帰命したてまつる [「『正信偈』ふたたび」その62]

(2)無碍光如来に帰命したてまつる

前置きはこれぐらいにしまして偈文に入りますが、その第一句で、「天親菩薩、『論』を造りて説かく」と天親が『浄土論』を著したことが述べられます。これは、親鸞にとって浄土教の歴史のなかでこの『浄土論』の存在が格別に大きい意味をもつということです(『教行信証』「信巻」の序で、浄土三部経と肩を並べるかたちで『浄土論』に言及しています)。

『浄土論』は非常にコンパクトなつくりで、前半が阿弥陀仏とその浄土を讃える「願生偈」、後半にその偈文をみずから解説する「長行(じょうごう、散文の部分)」となっています。そして「願生偈」の冒頭、その第一偈が「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」ですが、それがここで「無礙光如来に帰命したてまつる」という第二句となっています。その第二偈が「われ修多羅の真実功徳相によりて、願偈を説きて総持し、仏教と相応せん」ですが、それをもととして「修多羅によりて真実を顕して、横超の大誓願を光闡す」の第三・四句が詠われているのです。

こんなふうに、天親は「願生偈」のはじめに、「われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつる」と宣言しているのですが、これは「南無阿弥陀仏」ということに他なりません。「南無阿弥陀仏」という不思議なことばは、“namo”を「南無」に、“amitabha”を「阿弥陀」に、“buddha”を「仏」と梵語をそのまま音訳しただけで、これでは何を言っているのか分かりません。では、その意味はといいますと、“namo”は「帰命します(信じ敬います)」で、“amitabha”は「無量光」、“buddha”は「如来」ということですから、「わたしは無量光如来に帰命いたします」となるのです(『大経』では阿弥陀仏を十二の光の名で呼んでいて、「願生偈」ではその中の無礙光をつかっています)。

ここから分かりますのは「南無阿弥陀仏」は「わたし」を主語とする文であるということです。「南無阿弥陀仏」のことを「名号」と言いますから、これはただ阿弥陀仏の名前のことだと思ってしまいますが、それは大きな間違いで、「南無阿弥陀仏」とは「わたしは阿弥陀仏に帰命します」と宣言することです。このように「名号」とは「称名」に他ならず、親鸞はしばしば「名号」のことを「称名」と言い、「称名」のことを「名号」と言うことになります。


タグ:親鸞を読む
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