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証知せしむ [『正信偈』を読む(その113)]

(3)証知せしむ
 
 先の曇鸞のところで「生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」とありましたが、これを改めて取り上げ、道綽のいう聖道門と浄土門の違いを考えてみましょう。「生死すなはち涅槃」については、すでに第6章で、どうしてそんな矛盾したことが言えるのか、いろいろ考えましたが、ここでは「せしむ」という使役の表現に着目したいと思います。
 聖道の立場では「生死すなはち涅槃なりと証知す」でしょうが、浄土の立場では「生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」となる。ここに両者の違いが鮮明です。「知る」と「気づく」の違いです。聖道は「こちらから知る(悟る)」のに対して、浄土は「向こうから気づかせていただく」のです。
 アルキメデスの原理は「こちらから知る」ことができますが、生死即涅槃は「向こうから気づかせていただく」ほかありません。あるとき、ふと、生死がそのまま涅槃であることに気づかせていただく。それは生死即涅槃を自分の中に取り込むことではありません。そうではなく、自分がもうすでに生死即涅槃の中に取り込まれているのです。
 どうして生死即涅槃などという矛盾したことが言えるのかと問われても、それをこちらから知ったわけではありませんから、かくかくしかじかのわけで、と答えることはできません。ただ、あるとき、その中にいたのです、としか言いようがありません。これが「生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」ということです。
 さてしかし、末法の世では、どんなに正しい教えも「修しがたく、いりがたし」というのはどういうことでしょう。時と機に相応した正法の世ならば「生死すなはち涅槃なりと証知す」ることができるが、末法の世だから「生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」となるのはどういうわけでしょう。


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