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信ずるということ [『ふりむけば他力』(その23)]

(7)信ずるということ

 気づくことに関しては、気づくことそれ自体が証明であり、その外に証明を求める必要はないことを見てきました。ところで本願力を信ずるとは本願力に気づくことですから、本願力に気づいたこと自体がその証明で、それ以外に本願力の証明はありません。そのことについて考えておきたいと思います。まず「本願力を信ずるとは本願力に気づくことに他ならない」ことを確認しておきましょう。本願力に気づいて、その上でそれを信ずるのではありません、本願力に気づくことそのものがそれを信ずることです。これは普通の信ずるとはおよそ異なると言わなければなりません。
 「信ずる」を辞書で調べますと、「①疑わずに本当だと思い込む。心の中に強く思い込む。②疑うことなく、たよりとする。信頼する。③神仏などを崇め尊び、身をまかせる」とあります(大辞林)。いずれも「わたし」が何か(知識、人、神仏など)をたのみ、それにまかせるという意味です。第1章で見ましたように、ことばはみな自力用につくられていますから、「わたし」が前提されています。あくまで「わたし」が起点という構図になっているということです。「信ずる」についても、「わたし」がありとあらゆることを吟味し、あることには「信」というスタンプを、あることには「疑」というスタンプを押すということになります。
 しかし本願力を「信ずる」ことは様子がまったく異なります。これまで見てきましたように、本願力はわれらが「こちらから」つかみ取ることができるようなものではなく、反対に、あるとき本願力に「むこうから」むんずとつかみ取られ(追はへとられ)、そのときには「もうすでに」そのなかに摂取されているのでした。これが本願力を信ずることに他なりませんから、「わたし」が本願力に「信」というスタンプを押すどころか、逆に本願力が「わたし」に「信」というスタンプを押してくるのです。「信ずる」ことは「わたし」に起っているに相違ありませんが、「わたし」が起こしているのではなく本願力そのものが起こしているのです。本願力を信ずるというときの「信ずる」は「知る」(こちらからつかみ取る)ことの仲間ではなく、「気づく」(むこうからつかみ取られる)ことに他なりません。

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