SSブログ
『ふりむけば他力』(その108) ブログトップ

生(なま)の事実? [『ふりむけば他力』(その108)]

(4)生(なま)の事実?

 もちろん歴史という物語と普通にこのことばで言われる物語(例えば『竹取物語』)との区別は必要です。前者は「過去に実際にあったこととして物語られる」のに対して、後者は「架空のこととして物語られる」のですから。でも、どちらも物語られることにより、われらに伝えられ、われらにさまざまに影響を与えているという点では共通しています。そして何より肝心なことは、どちらの場合も、物語られたことがらとは別に、どこかに「生の事実」があるのではないという点です。いわゆる物語の場合、そんな事実がどこにもないのは当たり前で、だからこそフィクションとよばれますが、歴史という物語の場合も、その元になる「生の事実」がどこかにあるわけではありません。過去はそれがどのように物語られたかがすべてであり、それとは別にどこかに過去そのものがあるのではないということです。
 まず事実があり、しかる後に物語られるのは確かですが、でも同時に、まず物語られ、そしてはじめて事実となることも確かです。かくして事実と物語との境い目は限りなく薄くなってきます。この間、自民党のある有名な政治家が、大事なのはファクトであって、右や左のイデオロギーではないと語っていましたが、彼の言うイデオロギーとは物語でしょう。政治は物語ではなく事実に基づかなければならないというのが彼の発言の趣旨です。それは一応もっともだと思うものの、さてしかし物語ではない事実とは何でしょうか。物語をもっとも広い意味に取り、ことばで物語られることとしますと、事実とはことばで物語られないもの、あるいは、ことばで物語られる前の「生のデータ」ということになりますが、そんなものがどこにあるのでしょう。
 それは数字であり、グラフであり、写真である、という答えが返ってきそうな気がします。なるほどそれらはことばではありませんが、しかし、それらは何かの数字であり、何かのグラフであり、何かの写真ですから、全体のなかから特にそれらが切り取られてきたということであって、そのときすでにことばが介在しているのは間違いありません。「これがファクトである」と言われるとき、それはすでにことばで物語られたものであるということです。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その108) ブログトップ