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『教行信証』精読(その57) ブログトップ

本文4 [『教行信証』精読(その57)]

(11)本文4

 『大経』につづいて、『如来会』から引用されます。

 『無量寿如来会』にのたまはく、「いま如来に対して弘誓をおこせり。まさに無上菩提の1を証すべし。もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等等を取らじ。心、あるいは常行に堪へざらんものに施せん。ひろく貧窮(びんぐ)をすくひて、もろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめん2乃至。最勝丈夫、修行しおはりて、かの貧窮において伏蔵とならん。善法を円満して等倫なけん。大衆のなかにして師子吼せん」と。以上抄出
 またのたまはく、「阿難、この義利をもてのゆゑに、無量無数、不可思議、無有等等、無辺世界の諸仏如来、みなともに無量寿仏の所有の功徳を称讃したまふ」と。以上
 注1 「因」では意味が通らず、「日」の誤記であると考えられます。「日」と改めてこの部分を読み直しますと、「まさに無上菩提を証すべきの日、もしもろもろの上願を満足せずば」となります(山辺智学・赤沼智善著『教行信証講義』による)。
 注2 『如来会』のもとの文では「心あるいは常に施を行じ、ひろく貧窮をすくひて、もろもろの苦を免れしめ、世間を利益して、安楽ならしむるに堪へずんば、救世(くせ)の法王にならじ」とあるのですが、親鸞は「救世の法王にならじ」の句を削除し、「心あるいは常行に堪へざらんものに施せん。ひろく貧窮をすくひて、もろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめん」と読んでいます。そうすることで、法蔵菩薩は、厳しい修行に堪えることができない哀れな凡夫に、名号という宝を施して救おうとしたことがよりはっきりするということでしょう。

 (現代語訳) 『無量寿如来会』にはこうあります、「いまわたし法蔵は、世自在王仏に対して弘誓をおこしました。この上ない悟りをひらいて仏となるべき日に、もしこれらの優れた誓願を成就できないようでしたら、十力をそなえた仏にはなりません。こころが軟弱で厳しい修行に堪えられないものに名号を届けましょう。こころ貧しいものたちを広く救い、もろもろの苦から免れることができるようにして、世間に利益を与え人々を安楽ならしめたいと思います。(中略)わたしは勝れた丈夫として修行を積み重ね、あのこころ貧しきものたちに名号という宝をほどこします。あらゆる善き功徳をそなえた並ぶもののない仏として生きとし生けるものたちに教えを説きたいと思います」と。
 またこうあります、「阿難よ、名号にはこのように真の利益があるから、世界中の数限りない仏たちが、みな口をそろえて無量寿仏の功徳を称讃するのだ」と。

タグ:親鸞を読む
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