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「『証巻』を読む」その54 ブログトップ

第6回、本文2 [「『証巻』を読む」その54]

(3)第6回、本文2

さていよいよこれから菩薩の還相のはたらきが説かれます。

菩薩を観ぜば、〈いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察せば、かの菩薩を観ずるに、四種の正修行(しょうしゅぎょう)功徳(くどく)成就したまへることありと、知るべし(浄土論)と。真如(しんにょ)はこれ諸法の正体なり。体、如にして行ずればすなはちこれ不行なり。不行にして行ずるを、如実(にょじつ)修行(しゅぎょう)真如にかなった正しい修行と名づく。体はただ一如にして義をして分ちて四つとす。このゆゑに四行、一をもつてまさしくこれを()意味の上で四つに分けるが、四つの行を一つにまとめて如実修行という

これは菩薩の荘厳功徳についての総論にあたるところです。天親が菩薩は四種の正しい行を成就すると言っているのを、曇鸞が正しい行とは真如にかなった行であり、それは行であって不行であり、不行であってこそ如実修行であると注釈しています。そして行に四つあると言っても、それが不行の行であるという点においては一つであると言います。この段を読んですぐ頭に浮ぶのは『歎異抄』の第八章です。「念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには、非行・非善なりと云々」とあります。

これは念仏について言っていますが、還相のはたらきについてもまったく同じように言うことができます、「わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ」と、また「ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには、非行・非善なり」と。さてしかし「わがはからひにて行ずるにあらず」とか「自力をはなれたる」とはどういうことでしょうか。親鸞は関東の弟子への手紙の中で法然の「義なきをもつて義とす」ということばをしばしば持ち出していますが(ここに浄土の教えの根幹があるからに他なりません)、この「義なき」こと、すなわち「わがはからいがない」、「自力をはなれている」とはどういうことを意味するのでしょう。


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