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「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」 [『ふりむけば他力』(その38)]

(11)「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」

 われらはみな「わたしのいのち」を生きています。これはもうそれが正しいとか間違っているとかいったことではなく、われらはみなそれを大前提として生きているということです。これを否定して「いや、このいのちは誰のいのちでもありません」と言う人がいるでしょうか。もしそういう人がいるとすればお尋ねしたい、もしどこかで「このいのちは誰のいのちでもないそうだから、重い心臓病の人のために使おう」という決定がなされたとしますと、あなたは文句を言わずにそれに従うでしょうか、と。もう明らかでしょう、われらは「われ」があると思い、「わがもの」があると思っており、そして「これは“わたしのいのち”である」ことを前提として生きています。
 「わたしのいのち」を生きるということは、「わたしのいのち」をすべてに優先させることであり、それは取りも直さず他の「いのち」たちの犠牲の上に生きることに他なりません。他の「いのち」を慈しみ、そのために尽くすこともあるじゃないかと言われるかもしれませんが、それは、そうすることが「わたしのいのち」を利するからであり、もしそうではないことが判明しますともう見向きもしません。このように他の「いのち」たちを犠牲にして生きることが「わたしのいのち」を生きることですが、そんなときどこかから不思議な声が聞こえてくるのです、「おまえは自分を主宰者として“わたしのいのち”を生きていると思っているようだが、何か大事なことを忘れていないか」と。その声に、これまですっかり忘れ果てていたこと、忘れていること自体を忘れていたことにはっと気づかされます。
 それが「ほとけのいのち」です。「ほとけのいのち」とは「無量(アミタ)のいのち」であり、すべての「いのち」たちが縦横無尽につながりあったその総体です(無数の結び目からなる無尽の網です)。ありとあらゆる「いのち」がそのなかに包摂されているのが「ほとけのいのち」であり(たったひとつでも例外でもあればもう「無量のいのち」ではなくなります)、その「ほとけのいのち」のなかで生かされているということに気づかされるのです。「ほとけのいのち」の気づきは「わたしのいのち」から起ることはありません、それは「ほとけのいのち」からの呼びかけで気づかされるのです。
 「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のなかで生かされているということ、これが縁起であり、そしてそれが他力です。

                (第3章 完)

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