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「信巻を読む(2)」その115 ブログトップ

有にあらず無にあらずして、またこれ有なり [「信巻を読む(2)」その115]

(6)有にあらず無にあらずして、またこれ有なり

釈迦の説法の最後になります。

大王、たとへば涅槃は有にあらず無にあらずして、またこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといへども、慚愧の人はすなはち有にあらずとす。無慚愧のものはすなはち無にあらずとす。果報を受くるもの、これを名づけて有とす。空見の人(あらゆるものは実体がなく空であると知った人)はすなはち有にあらずとす。有見の人(あらゆるものは実体であると考える人)はすなはち無にあらずとす。有有見のもの(有見に執着する人)はまた名づけて有とす。なにをもてのゆゑに。有有見のものは果報をうるがゆゑに。無有見のもの(有見のない人)はすなはち果報なし。常見の人(常住であると悟っている人)はすなはち非有とす。無常見のもの(常見のないもの)はすなはち非無とす。常常見のもの(常見に執着する人)は無とすることを得ず。なにをもてのゆゑに。常常見のものは悪業の果あるがゆゑに、このゆゑに常常見のものは無とすることをえず。この義をもつてのゆゑに、非有・非無なりといへども、しかもまたこれ有なり。大王、それ衆生は出入の息に名づく(呼吸するものを衆生という)。出入の息を断つ。ゆゑに名づけて殺とす。諸仏、俗に随ひて、また説きて殺とす〉。乃至 

よく呑みこめない言い回しがたくさん出てきて一筋縄ではいきません(『涅槃経』はそのようなことが多いのではないかと感じます。その点、『大経』や『観経』、また『小経』は、ことば遣いが難しいということはあっても、論旨に曖昧なところはありません)。しかしこれまでの流れの中においてみれば、全体として言わんとしていることをつかみ取ることはできます。ここはここまで釈迦が説いきたことをまとめる位置にあり、阿闍世の父王殺害をどう見ればいいかということについて述べられます。それが「有にあらず無にあらずして、またこれ有なり」ということばです。阿闍世の父王殺害はあったとも言えず、なかったとも言えないが、しかし阿闍世が父王を殺害した事実は厳然としてあるということです。どういうことでしょう。


タグ:親鸞を読む
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