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プラスではなくイコール [「信巻を読む(2)」その6]

(6)プラスではなくイコール

いつものごとく回向の主体を「われら」から「如来」へとコペルニクス的に転回しているのです。親鸞にとって回向発願心(ここでは無上菩提心)とは、われらがみずから持たなければならないものではなく、如来から賜るものであるということです。われらがみずから持とうとしても持てるものではなく、如来から与えられるものであるということ、このことがここで語られていることと深く結びついています。この文の核心は、無上菩提心は願作仏心でありながら、同時に度衆生心であるということですが、そのような無上菩提心はわれらの心ではありえず、もともと如来の心であるということです。したがって、それがわれらにあるということは、如来から賜ったのであるということになります。

願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」ということばを正確に理解しなければなりません。これは「願作仏心は同時に度衆生心でなければならない」というように読んでしまいがちですが、そうではありません。無上菩提心をみずから持たなければならないという自力の立場に立ちますと、それはただ自分が仏になろうとする(願作仏心)だけでなく、一切衆生を救おうとする(度衆生心)ものでなければならないとなります。自利だけでなく利他でなければならないということで、「自利プラス利他」ということです。しかし「願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」の「すなはち」は「プラス」ではなく「イコール」です。願作仏心はそのままで度衆生心であるということです。

「願作仏心プラス度衆生心」というのは理解しやすいでしょう。「自分のことだけではなく、他人のことも考えなければ」ということで、耳に通りやすいと言えます。これは自力の立場から発せられたことばだからです。しかし「願作仏心イコール度衆生心」は分かりにくいと言わなければなりません。自分が仏になりたいと願うことと、一切衆生を救いたいと願うことが同じことであるというのですが、どうしてそんなことが言えるのか。まず自分のことを願い、次いで他人のことを願うのであって、二つは時間的に別のことではないかと思えるからです。


タグ:親鸞を読む
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