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僧にあらず俗にあらず [「親鸞とともに」その57]

(10)僧にあらず俗にあらず

親鸞は『教行信証』の末尾に承元の法難についてこう記しています、「主上臣下、法に背き義に違し、忿(いか)りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥(みだ)りがはしく死罪に坐(つみ)す。あるいは僧儀を改めて姓名(しょうみょう)を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。しかれば、すでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす」と。これでみますと、法難により僧としての地位がなくなったから「僧にあらず俗にあらず」ということですが、このことばにはそれ以上にもっと重いものが込められていると思われます。すなわち不婬という戒を公然と破るのだから、もはや正式の僧ではないが、しかし仏弟子(釈)の親鸞として生きていくという決意をあらわしていると言うべきでしょう。

ここに僧ではないが俗でもない新しい生き方が示されています。僧と俗を分け隔てる境界として不婬戒がありましたが、親鸞はそれを乗りこえて「非僧非俗」という新たな仏道を歩みはじめるのです。これは出家僧と在家衆の垣根を取り払うものと言うべきで、もっと言えば、サンガ(僧伽)という特殊な集団を否定することにつながります。サンガという出家集団をよりどころとするのではなく、僧ではなく俗でもない一人の人間として念仏の道を歩むということです。あるいはこう言った方がいいかもしれません、一人ひとりがサンガとして生きると。

『歎異抄』の後序に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり」ということばがあり、これは五劫思惟の願に生かされるのはひとり一人であるということですが、これを一人サンガの宣言と受けとめることもできます。その第2章では、親鸞は関東からやってきた人たちにこう言います、「詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」と。これもまた、所詮、一人ひとりがサンガとして念仏するしかないという宣告でしょう。

 

(性ということ 完)


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