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『正信偈』を読む(その156) ブログトップ

どうして法然の引用が少ないのか? [『正信偈』を読む(その156)]

(3)どうして法然の引用が少ないのか?

 「正信偈」においては、七高僧にほぼ同じスペースを割いているのに、『教行信証』全体において法然の引用回数があまりに少ないのは異様に思えます。『歎異抄』を読みますと、親鸞は弟子たちに語るときに、しょっちゅう法然のことを、そのことばを引き合いに出していたことがうかがわれます。
 有名なところをひとつ上げますと、第2章に「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」とあります。「よきひと」が法然を指すのは言うまでもありません。
 あるいは『末燈鈔』をはじめとする親鸞の手紙類を読みましても、法然に言及されることがしばしばです。これもひとつ上げておきましょう。『末燈鈔』第6通にこんな話が出てきます。「故法然聖人は『浄土宗の人は愚者になりて往生す』と候しことを、たしかにうけたまはり候しうへに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、『往生必定すべし』とて、えませたまひしをみまいらせ候き。ふみさたして、さかさかしきひと(学問をして、いかにも賢そうな人)のまいりたるをば、『往生はいかゞあらんずらん』と、たしかにうけたまはりき。いまにいたるまで、おもひあはせられ候なり」。
 このように弟子に対するときには、自分の師匠である法然のことをしきりに口にしています。これはごく自然なことだと思うのですが、『教行信証』になりますと、ほとんど言及していないのです。
 どうしてだろうと不思議に思えますが、よくよく考えてみますと、『教行信証』という書物の性格からして、当然のこととも思えてきます。つまり、この書物は弟子たちに向かって語るというよりも、むしろ聖道門の人たちに対して、浄土の真実の教えを明らかにしているのです。そして浄土の真実の教えとは法然の教えに他なりません。


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