SSブログ
『歎異抄』ふたたび(その2) ブログトップ

耳の底に留むるところ [『歎異抄』ふたたび(その2)]

(2)耳の底に留むるところ

 この書物の魅力は何と言っても親鸞が地声で語っているその現場に立ちあえることにあります。親鸞が書いたものはたくさんありますが、語ったことばとして残されているのはこの『歎異抄』と、あとは『口伝鈔』くらいです。『口伝鈔』は親鸞のひ孫の覚如が著したものですが、これは他の人たちから聞いたことを記録しているのに対して(覚如は生前の親鸞に会うことはできませんでした)、『歎異抄』は唯円が直に聞き、その「耳の底に留むるところ」(序)を伝えてくれますから何ともありがたい。「耳の底に留むるところ」ということは、親鸞が語ったことばで唯円のこころの奥深くまで届いたものを何度も何度も反芻するなかで贅肉がそぎ落とされ、ちょうど高い山が長い間に浸食されて峻厳な山容をあらわすように、もっともコアな部分が残ったということでしょう。
 この「耳の底に留むるところ」ということばには浄土真宗のもっとも本質的なものが隠されていると言えます。そもそも「南無阿弥陀仏」は声として届けられ、われらの「耳の底に留むる」ものです。われらはともすると「南無阿弥陀仏」はこちらから称えるものと思いますが、いや、それはそうに違いないのですが、大事なことは、われらが口に「南無阿弥陀仏」と称えるより前に、それに先立ってむこうから聞こえてくるということです。向こうから聞こえてくる(聞名)から、こちらから称える(称名)のであるということ、ここに浄土の教えの真髄である他力ということがあります。こちらから称えるということだけで言えば、これはどう見ても自力ですが、それはむこうから聞こえてきた声にこだましているという意味で他力なのです。
 大急ぎで言っておかなければなりませんが、むこうから「南無阿弥陀仏」の声が聞こえると言いましても、どこか空のかなたから「ナムアミダブツ」という不思議な声が聞こえてくるわけではありません。それではオカルトになってしまいます。そうではなく「よきひとの仰せ」(第2章)を通して、そのなかから「南無阿弥陀仏」の声が聞こえてくるのです。「よきひとの仰せ」を通して、「わがもとに帰りきたれ」(親鸞は『教行信証』「行巻」において「南無阿弥陀仏」を招喚の勅命であると解説してくれました)という本願の声が聞こえてくる。これが「南無阿弥陀仏」です。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』ふたたび(その2) ブログトップ