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物語のことば [正信偈と現代(その17)]

(6)物語のことば

 「むかし法蔵菩薩が云々」というときの「むかし」は、歴史の上での「むかし」ではなく、歴史そのものよりも「むかし」です。どんな「むかし」よりもっと「むかし」。
 そのことを親鸞は『唯信鈔文意』でこんなふうに語っています、「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまふ御かたちおば、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり」と。
 ここで法身とか一如というのは時間のなかのことではありません。だからこそ「いろもなし、かたちもましまさず」、「こころもおよばれず、ことばもたへたり」です。時間を超えたところから時間のなかに「かたちをあらわ」すなどということは、もはや論理のことばでは表しようがありません。ですから法蔵菩薩が五劫思惟して本願を建立したという物語のことば(方便のことば)でしか語れないのです。
 さてここでもう一度あの疑問に立ち返りましょう、法蔵菩薩が物語というなら、阿弥陀仏も浄土も作りもの、絵空事ということになるではないか、という疑問です。絵空事を信じるなんて正気の沙汰ではないと。
 考えてみたいのは、もしこの世にフィクションというものがなかったら、どんな世界になるだろうかということです。ぼくは小説なんて読まないという人がいるかもしれませんが、そんな人も幼かった頃には絵本でさまざまな物語に親しんできたのではないでしょうか。あるいはテレビで鉄腕アトムを観て育ったのではないでしょうか。そんな創作がまったく存在しなかったら、この世は潤いのないカサカサの世界に違いありません。毎日が戦火に明け暮れている中東の子どもたちには絵本を読む余裕はないでしょうが、でも自分の頭の中で平和な世界を思い描くことはできます。そうしたフィクションの世界を創りだすことでひどい現実を耐え忍ぶことは許されているのです。

タグ:親鸞を読む
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