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第9回、本文3 [「『証巻』を読む」その92]

(9)第9回、本文3

菩薩の巧方便回向(ぎょうほうべんえこう)についての注釈がつづきます。

おほよそ〈回向〉の名義(みょうぎ)を釈せば、いはく、おのれが所集の一切の功徳をもつて、一切衆生に施与(せよ)して、ともに仏道に向かへしめたまふなりと(例によって、ここも普通に読めば「ともに仏道に向かふなり」となります)。〈巧方便〉とは、いはく、菩薩願ずらく、おのれが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんと、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ仏にならじと。しかるに衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏せんは、たとへば(かてん)(木の火ばし)して、一切の草木を()んで焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火掭すでに尽きんがごとし。その身を後にして身を先にするをもつてのゆゑに、巧方便と名づく。このなかに〈方便〉といふは、いはく作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟(ひっきょう)成仏の道路、無上の方便なり。

この文でおもしろいのは「火掭の譬え」です。木の火ばしで草木を擿んで焼こうとしているうちに火ばしの方が先に焼けてしまうように、菩薩も一切衆生を成仏させないうちは仏になるまいと誓って衆生済度のはたらきをしているうちに先に成仏してしまうというのです。これは法蔵菩薩が「若不生者、不取正覚(もし生れざれば、正覚を取らじ)」と誓願したにもかかわらず、不可思議の兆載永劫の修行をするうちに先に成仏して阿弥陀仏となったことを指しますが(この辺りは還相の菩薩と法蔵菩薩がひとつになっています)、このことは法蔵が誓いに反したということではなく、ここにこそ菩薩の巧方便があると曇鸞は言います。「その身を後にし」ようとしながら、しかし実は「身を先にする」ことに巧みな方便があるのだというのですが、さてこれはどういうことでしょう。

その答えが「作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」という一文にあります。


タグ:親鸞を読む
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