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旅はすべてが道中 [正信偈と現代(その35)]

(7)旅はすべてが道中

 旅の醍醐味はその道中にあります。旅には目的地があるものでしょうが、そこに着くことだけが旅の楽しさではありません。むしろ、目的地に向かう道中にこそワクワクした喜びがあるのではないでしょうか。自宅から一歩出たところから旅ははじまります。汽車に乗り、流れる車窓を見ながら駅弁を広げる楽しさ、などというのはもう古いでしょうか。飛行機でしたら、雲間から垣間見える地上の形からどの辺を飛んでいるのかを推測する楽しさ、もう一瞬一瞬が魅惑に満ち満ちています。いや、こう言うべきでしょう。旅において道中と目的地はひとつながりで、すべてが道中であるとも言えますし、すべてが目的地と言うこともできると。
 蓮如の『おふみ』を読んでいますと、「平生業成」、「不来迎」に親鸞の開いた新境地があると述べながら、しかし実際のところは、現生において正定聚になるということに画期的な意味を見ていないような気がします。画期はやはり臨終にあるのではないかと思えるのです。今生はどこまでも苦しみを耐え忍ぶのみで、来生にこそ安楽浄土が待っているという感覚。もちろん今生は娑婆(もとのサンスクリットは「サーハー」で、苦しみを忍ぶ世界という意味)ですから、次々と苦しみに襲われるには違いありませんが、でも、本願・名号に遇うことができますと、その苦しみが苦しみのまま「そのこころすでにつねに浄土に居す」という不思議が開けると教えてくれたのが親鸞です。だから画期は今生において正定聚になるときにこそある。
 蓮如にとって旅というものは苦しみでしかなかったように感じられます。旅とはどこか目的地に行くための苦しい過程にすぎず、楽しみは目的地に着いてはじめて味わえるという感覚。しかし浄土への旅は、その道中の一つひとつがすべて目的地であり、そこでは苦しみが苦しみのまま楽しみである、これが親鸞の現生正定聚の思想です。

タグ:親鸞を読む
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