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三業の所修みなこれ真実のなかになしたまへる [『教行信証』「信巻」を読む(その105)]

(9)三業の所修みなこれ真実のなかになしたまへる

経典の引用の後、善導の『観経疏』「散善義」から引かれます。

光明寺の和尚のいはく、「この雑毒(ぞうどく)の行を回して、かの仏の浄土に求生(ぐしょう)せんと欲(おも)ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行ぜし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実のなかになしたまへるによりてなり。およそ施したまふところ趣求(しゅぐ)をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。乃至 不善の三業をば、かならず真実心のうちに捨てたまへるを須(もち)ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇(ないげみょうあん)を簡(えら)ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに、至誠心となづく」と。抄要

お気づきでしょうか、この文はそっくり同じ形ですでに引用されています(第5回、8)。それは善導の三心釈(これは『観経』の至誠心・深心・回向発願心の注釈です)が長く引用されていた中に至誠心の注釈として含まれていたのですが、ここでは特に本願の至心を注釈するためにもう一度引かれているのです。前のところでも述べましたように、親鸞はこの文に独自の読みを施すことで善導の真意を汲み取ろうとしていますので注意が必要です。

最初の「この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり」の「雑毒の行」と言いますのは、「内に虚仮を懐いて」なす行のことで、そのような行を「たとひ身心を苦励して日夜十二時に急にもとめ急になして頭燃をはらふがごとく」しても、それは所詮「雑毒の行」であるから、それによって往生しようとしても不可であるということです。

そしてそれにつづいて法蔵菩薩が五劫思惟して誓願をたて、それを成就するために兆載永劫の修行をしたときのことを取り上げ、「乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実のなかになしたまへる」と言うのです。このように善導はわれらの「雑毒の行」と、「みなこれ真実心のなかになしたまへる」法蔵の行とを対比することで、その鮮やかなコントラストを出しているのです。


タグ:親鸞を読む
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