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はしたない [『一念多念文意』を読む(その64)]

(7)はしたない

 浄土真宗に妙好人とよばれる人たちがいます。そうした人の中には「わがものという思い」などないかのように見える人がいます。たとえば因幡の源左。
 ある日、母親から芋を掘ってきておくれと言われ、鍬を持って芋畑に出かけたところ、誰かがせっせと芋を掘っていた。芋泥棒です。で、源左はそのまま踝を返して家に戻り、「あれ、源左、芋はどうした」といぶかる母親に、「どうも今日はおらんちの掘る番ではなかったようだ」と答えたというのです。
 こういう話を聞きますとおのずと頭が下がります。
 しかし、同時にこうも思うのです、もし源左のこころに何の葛藤もないとしますと、ぼくには縁のない話だと。源左にも「わがものという思い」があり、源左はそれをじっと見つめているという前提があってはじめてこの話はぼくに働きかけ、少しでも源左に見習わなければならないという気持ちにさせてくれるのです。
 浄土の教えでは、「わがものという思い」から完全に解き放たれるのは、この世を去るときであると説かれます。悟りをひらいて仏になるというのは「わがものという思い」から完全に解き放たれるということです。それまではこの思いと付き合いながら生きていくしかありません。
 「つねに見られている」のは耐え難いものがありますが、それはぼくらに「わがものという思い」があるからだということを見てきました。ぼくらは普段この思いをひとの目から隠し、自分にはそんなはしたない思いはありませんという顔をして生きています。この「はしたない」ということばは意味深長です。「わがものをもつ」のがどうしてはしたないのでしょうか。

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