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直接話法と間接話法 [はじめての『高僧和讃』(その158)]

(8)直接話法と間接話法

 英文法で直接話法と間接話法といいますが、それを借りて言いますと、「本願のいわれを聞く」のは間接話法であるのに対して、「本願そのものを聞く」のは直接話法です。
 『無量寿経』は、釈迦が阿難に対して弥陀の本願について語っているのですから、間接話法です。釈迦が「法蔵菩薩、因位のとき、世自在王仏のみもとにありて云々」と語り、阿難が、そしてわれらがそれを聞くわけです。しかし「本願そのものを聞く」というのは、釈迦が弥陀の本願について語るのを聞くのではなく、弥陀の本願自身が直接われらに語りかけるのを聞くということです。
 親鸞は「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひと(法然)のおほせをかぶりて、信ずる」だけと言っていますが(『歎異抄』第2章)、これも間接話法です。親鸞は法然が弥陀の本願について語るのを聞いているのですから。しかし、親鸞が「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」などと言えるのは、法然のことばを通してそのなかに弥陀の本願自身の声を聞いているからに違いありません。つまり直接話法です。
 間接話法ではどこまでも疑いがつきまといますが、直接話法となってはじめて「すかされまひらせて(も)…さらに後悔すべからずさふらふ」と疑いがなくなるのです。そして、もうひとつ言わなければならないのは、直接話法とはいっても、本願の声がそのまま聞こえるわけではないということです。本願の声がそのまま聞こえるなどと言いますと、オカルトになってしまいます。本願の声はあくまで釈迦のことばを通して、あるいは法然の声を通して聞こえてくるのであって、直接話法とはいっても間接話法を媒介にせざるをえないのです。
 かくして「本願に相応する」とは、「念仏して往生せよ」という弥陀のよびかけが直接話法で届いていることであると言えます。そして逆に「本願に相応しない」とは、間接話法で「本願のいわれを聞く」だけで、弥陀のよびかけがまだ直接話法で届いていないがゆえに、疑念のなかで「雑縁きたりみだるなり」ということです。

タグ:親鸞を読む
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