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よく瓦礫をして変じてこがねとなさしむ [『教行信証』精読2(その16)]

(16)よく瓦礫をして変じてこがねとなさしむ

 「よく瓦礫をして変じてこがねとなさしむ」を文字通りに受けとりますと、人のありようが正反対のものが変わってしまうというのですから、そんなことが起こるのはいのち終わってのちのことと解さざるをえませんが、親鸞の註釈を読みますと、そうではないように思えてきます。「如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば」、そのときただちに「摂取のひかりのなかにおさめとられまゐらせて」、それが「いし・かわら・つぶてなむどを、よくこがねとなさしめむ」ということに他ならないと読めます。つまり、弥陀の本願を信楽して、摂取のひかりのなかにおさめとられますと、「いし・かわら・つぶて」でしかなかったわが身が「こがね」のように見えてくるということです。
 「わたしのいのち」が弥陀の光明に照らされますと、「いし・かわら・つぶて」でしかない「わたしのいのち」がそのままで「こがね」のような「ほとけのいのち」に見えてくるという不思議。「よく瓦礫をして変じてこがねとなさしむ」とはこのことを言っているのです。このように、浄土の物語はわれらを「ほとけのいのち」への気づきに至らせるための筏にすぎないにもかかわらず、それ自体が真理であると受けとってしまいますと、物語のことばに引きずられ、その結果すべてはいのち終わったのちのことであると理解してしまいます。しかし浄土の物語を通して、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であることに気づかせてもらいますと、浄土の物語はまさに物語にすぎないことが了解できるのです。
 これまでもしばしばありましたように、親鸞は経論を自在に読み替えるのですが、そんなことをしていいものだろうか、それは勝手な読み込みではないのかという疑念が生じます。しかし親鸞にとって経論のことばは物語のことばであり、それを通して「ほとけのいのち」に気づかせてもらうのであって、気づきに至ったあかつきには、もう物語のことばにとらわれることはありません。むしろ、人々がそれを文字通りに受けとって道に迷ってしまわないよう、肝心なところは気づきにもとづいて大胆に読み替えることが必要と思っていたのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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