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大聖おのおのもろともに [親鸞の和讃に親しむ(その25)]

(5)大聖おのおのもろともに

大聖おのおのもろともに 凡愚底下(ぼんぐていげ)のつみびとを 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり(第79首)

これらの人はみな菩薩、愚かなわれらつみびとを、一人たりとももらさずに、本願海に引き入れる

普通、大聖といいますと釈迦如来のことですが、ここでは王舎城の悲劇の主役である阿闍世や提婆達多たちを指しています。親鸞はこのような十悪五逆の罪人を浄土の教えを伝えるために仮に姿をとった聖人たちであると見るのです。『教行信証』の序に「浄邦縁熟して、調達(じょうだつ、提婆達多のこと)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰(あらわ)れて、釈迦、韋提(韋提希夫人)をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁(ごんけのにん、仮にあらわれたすがた)斉しく苦悩の群萠を救済(くさい)し、世雄(せおう、仏)の悲正しく逆謗闡提(ぎゃくほうせんだい、五逆と誹謗正法と一闡提)を恵まんと欲(おぼ)す」とありますように、阿闍世王や提婆達多らの逆謗闡提を「権化の仁」とするのです。

われらは世の逆悪非道な人たちを「鬼のようだ」と見てしまいますが、その人たちのありようこそ「己のほんとうの姿」だと見ることができるかどうか。普段は取り繕って生きていますが、われらの偽らざる姿はまさに彼らそのものではないかと思えるかどうか。そのように思えたとき、世の逆悪非道な人たちはわれらのほんとうの姿を教えてくれる「権化の仁」となっています。そしてこの「己の悪の気づき」こそ「逆悪もらさぬ誓願の気づき」に他なりません。自分のことを棚に上げて世の悪人たちを「鬼のようなヤツだ」と思っている限り、弥陀の本願が開かれることはありません。

しかし「悪の気づき」が「本願の気づき」であるとはどういうことか、どうしてそんなことが言えるのかという疑問が生まれるかもしれません。「いや、本願は悪人のためにあるのだから」と答えたとしても、どうして悪人のためであって善人のためではないのかという問いが生まれることでしょう。そこでこう答えましょう、「本願は一切の有情を平等に救おうという願いだが、一切の有情は悪人であることにおいて平等であるから」と。悪において平等であるという気づきが、本願は救いにおいて平等であるという気づきなのです。


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