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これあるによりてかれあり [「親鸞とともに」その5]

(5)これあるによりてかれあり

われらは「わたし」を前提としてわれらの生活を組み立てていることはもう疑いようがありません。この前提を否定した瞬間に、あらゆることがひっくり返ってしまいます。しかしそれは「わたし」とよばれる何かが実際に存在しているということではありません。仮に「わたし」があるとして生活が成り立っているということと、実際に「わたし」なるものが存在することとはまったく別です。ところがわれらはこの二つを混同してしまい、実際に「わたし」なるものが存在し、しかもそれがわれらの生活を主宰していると思い込みます。釈迦が我執ということばで言おうとしたのはそのことで、われらは「わたし」に囚われているということです。

われらは否応なく「わたし」を前提として生きているということは、「わたし」がいるかのごとく仮設(けせつ、仮にあるかのように措定する)して生きているということに他なりません。しかし、なぜ「わたし」なる主宰者がいるのではなく、ただ便宜上「わたし」を仮設しているだけと言えるのでしょうか。ここで「縁起の法」が登場します。縁起とは初期経典の説き方では「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」と言われ、あらゆるものは他のものとの「つながり(縁)」において成り立っているということです。具体的に考えてみましょう。このぼく、浅井勉という名の「わたし」とは何ものかを言おうとしますと、さしずめ何年に誰から生まれ、兄弟姉妹には誰がいて、という具合に語りはじめるでしょう。つまり、ぼくをつくっているつながりを語ることになります。そしてそのつながりはぼくが生きる時間とともに広がっていきますが、結局ぼくとは何ものかを語ることはぼくを取り巻くつながりを語ることです。

これは何を意味するかといいますと、「わたし」とは「わたし」を取り巻くつながりに他ならず、そのつながりを離れて「わたし」なるものがそれ自体としてどこかに存在しているのではないということです。先の釈迦のことば、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む」は、「わたし」と「子」、「わたし」と「財」などのつながりが「わたし」に他ならず、それとは別のどこかに「わたし」がいるのではないにもかかわらず、「わたし」なる主宰者が「わたしの子」や「わたしの財」を所有し支配しているとして、そのことに囚われ、苦しんでいることの愚かさを指摘しているのです。


タグ:親鸞を読む
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