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『教行信証』「信巻」を読む(その20) ブログトップ

たまたま [『教行信証』「信巻」を読む(その20)]

(10)たまたま


本願は「よきひと」を通してわれらに届けられることを見てきましたが、さて、そのことがどうして「真実の信楽まことに獲ることかたし」ということにつながるのでしょう。問題は「よきひと」に「遇う」ということにあります。「よきひと」というのは、もとからどこかにいるわけではありません。もしはじめからどこかにいるのでしたら、草の根を分けても探しだし、その人に「会う」ことができるでしょうが、「よきひと」というのは、「遇って」はじめてその人が「よきひと」であることが分かるのです。ここに「縁の不思議」があります。縁といいますのは、あるつながりのことですが、それは事前に知ることができず、それに気づいてはじめて縁が姿を現します。「赤い糸」は事後に「赤い糸」であることが判明するのです。


ここに「真実の信楽まことに獲ることかたし」のもっとも深い理由があります。信楽を獲るとは「よきひと」に遇うことですが、それは「たまたま」であるということ、これです。先ほど「会う」と「遇う」を使い分けましたが、「会う」は会おうと思って会うことであるのに対して、「遇う」は思いもよらず、たまたま遇うことです(「遇」の「禺」は「たまたま」という意味です)。さて「たまたま」とは偶然ということですが、しかし同時にそれは必然です。遇うべくして遇っているのであり、そこにはそのような縁(つながり)がちゃんとあるのです。ただそれが事前には分かりませんから「たまたま」と感じるのです。


ここであらためて「総序」のことばを想起しておきたいと思います。「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」とありました。「よきひと」を通じて本願に遇えたことは「たまたま」のことであるが、しかし思いみれば、そこにははかり知れないつながりがあったからこそのことであると、その縁の深さを慶んでいるのです。「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」とはそういうことです。


                               (第2回 完)



タグ:親鸞を読む
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