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信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す [『観無量寿経』精読(その74)]

(7)信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す

 諸行往生とは、自力でさまざまな行(定善・散善)を修めることにより往生をゲットしようとすることですから、首尾よく往生をゲットできるのは「これから先」のことであるのは言うまでもありません。さてではそれはいつのことか。往生をゲットするとは、これまで生きてきた世界とはそのありようがまったく異なる世界に新たに生まれるということですから、それは今生でのこととは考えられません。かくして、それは「寿終る時に臨んで」ということになります。「功徳を修して」往生を願うことと「寿終る時に臨んで」来迎を受けることは不離一体です。
 一方、本願他力による往生とは、あるときもう本願他力によって往生していると気づくことです。諸行往生がこちらから往生をゲットしようとするのに対して、むこうから往生にゲットされていたことに気づくのです。こちらから往生をゲットしようとしますと、往生は「これから」ですが、むこうから往生にゲットされていることに気づくときは、往生は「もうすでに」おこっています。そして、もうすでに往生していると気づくことが信心です。信心とは往生の気づきに他なりません。これが「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」ということです。
 さてしかし娑婆にいながら「その心すでにつねに浄土に居す」とはどういうことでしょう。このことばには元があり、それは善導『般舟讃』の「厭(いと)へばすなはち娑婆永く隔つ、欣(ねが)へばすなはち浄土につねに居せり」という文です。娑婆を厭えば娑婆から離れることができ、浄土を欣えば浄土に居ることができるということで、ここを娑婆だと思えば娑婆であるし、浄土だと思えば浄土が目の前に開けるという意味でしょう。「何ごともこころの思いよう」ということですが、ただ、「思いよう」とは言うものの、自分の思いたいように自在に思えるものではありません。
 自分でそう思おうとして思うのではなく、そう思わざるをえない力のはたらきを感じてそう思うのです。これがこれまで何度も述べてきました「気づき」です。「ああ、ここは娑婆だ」と思うのは、娑婆の気づきをえているのであり、「ああ、浄土が開示されている」と思うのも、浄土の気づきをえているのです。そして、これまたこれまで繰り返し述べてきましたように、「ここは娑婆だ」という気づきと「ここは浄土だ」という気づきは二つにして一つです(機法二種深信です)。

タグ:親鸞を読む
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