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覈(まこと)に其の本を求むるに [「『証巻』を読む」その40]

(9)覈(まこと)に其の本を求むるに

さてこの文を一読して、どんな印象が与えられるでしょう。「大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して」といい、「応化の身を示す」といい、「生死の園、煩悩の林のなかに回入して」といい、「神通に遊戯して教化地に至る」といい、ことばの一つひとつが人間業をはるかに超えているように感じられないでしょうか。『浄土論』は一貫して往生浄土を願う行者、すなわちわれらを主語として語られていますが、この「出第五門」まで来ますと、もうわれらのこととは到底思えないような語り方になっています。これをどのように理解すればいいでしょう。

そこで曇鸞の『論註』を見ますと、その末尾で曇鸞はこんな問いを立てています、「菩薩はかくのごとく五念門の行を修して自利利他す。速やかに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の無上の悟り)を成就することを得る」と天親は言うが、どうしてそんなことが言えるのだろうかと。そしてみずからそれに答えて、天親は「(菩薩が)五門の行を修して、自利利他成就するをもつてのゆゑ」と言っているが、「しかるに覈(まこと)に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁(すぐれた力)となす」と言うのです。天親は往生浄土を願うわれらが五つの自利利他の行を成就するからと言うが、実はそれは阿弥陀如来のすぐれた力によるのであるということです。

曇鸞はその根拠として「他利と利他」の違いを持ち出します、「もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利をいふべし」と。利他ということばは仏にしてはじめて言えることで、われら衆生からは他利(他すなわち仏がわれらを利益する)としか言えないという意味です。ところで上の文で「自利利他成就する」と述べられているから、これはわれらではなく、阿弥陀如来のことを述べていると理解しなければならないと言うのです。かくして「おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり」と結論されることになります。

われらが自利利他の行をなすことにより往生浄土ができるのではなく、すべて阿弥陀如来の本願力のおかげであるということです


タグ:親鸞を読む
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