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『教行信証』「信巻」を読む(その60) ブログトップ

如是如是 [『教行信証』「信巻」を読む(その60)]

(9)如是如是


 先回のところで、『観経疏』「定善義」から「神通如意」についての注釈文が引用されていましたが、そのなかに「(阿弥陀仏は)五眼円かに照らし、六通自在にして、機の度すべきものを観そなはして、一念のうちに前なく後なく身心等しく赴き云々」という一文がありました。この文に示されていますように、「ほとけのいのち」はこことは別のどこかにあるもの(実体)ではありません、いまこの「わたしのいのち」のもとに来て、「わたしのいのち」にはたらきかけている「力用(りきゆう)」です。曽我量深氏のことばでは、「如来われとなりてわれを救いたまふ」のであり、如来とわれはひとつになっています。それをわが身の上に感受することが信心に他なりませんが、それが取りも直さず「わたしのいのち」が証明されたということです。


どうしてそんなことが言えるのか、どこにその証拠があるのかとさらに問われたら、こう答えるしかありません、「ほとけのいのち」のはたらき(本願力)をわが身に生き生きと感じていること、そしてそれにより救われていること、これ以外に何の証拠もありませんと。以前、講座のなかで、名号の「こえ」が聞こえることが信心に他ならないと言いましたら、その「こえ」が幻聴ではないという証拠はありますかと問われたことがありましたが、そんな証拠はどこにもありません。ただその「こえ」が聞こえ、それによって現に救われていることが唯一の証拠です。この証拠は自分にしか通用しませんが、自分にとってはもうそれで十分で、それ以上何も必要ありません。


善導が「かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり」と言っているのはこのことでしょう。「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」のもとにやって来て、そのはたらきがわが身の上に生き生きと感じられているかどうか。もし感じられているなら、それが仏証が得られたということであり、そのとき仏は「如是如是とのたまふ」ているのでしょう。もし感じられないなら、それがどれほど理屈に合っているとしても、仏は「なんだちが所説、この義不如是とのたまふ」ことでしょう。



タグ:親鸞を読む
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